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四つ葉のクローバーを見つけた人には、幸せが訪れる。 そんな、他愛ないおまじないの物語―― ●◎○Be mine. 「意外と、無いもんだな……」 うららかな陽射しが降りそそぐ公園に寝転んで、アッシュはふぅ、と晴天を仰いだ。 背の高いマンションの煉瓦色と花に代わって新芽の伸びはじめた桜の浅緑が、四月の青空を丸く切り取っている。雲一つない快晴の空は季節柄、どこか温かみのある柔らかい色合いだ。雀たちの囀りとそこかしこに咲く草花と、若い緑の仄甘い匂い。隣のテニスコートからは学生らしき男女のはしゃぐ声がする。故郷メルヘン王国を遠く離れた地球の街中であっても、春は美しい。 だが、全てが好ましいものであるにもかかわらず、アッシュの心は浮き立つどころか呆けたような寂しさを味わっていた。喜びを謳う春の世界にひとりだけ置いてけぼりをくらってしまったみたいに。 実際にはそんなわけはないのだと解っている。それどころか「探し物」を始めた当初は、まるで世界の全部が自分たちに味方してくれているような最高の気分だった。それなのにたかが四つ葉のクローバーが見つけられない程度のことで、気落ちすること自体馬鹿げている。 しかし探し始めた理由というか、きっかけを思うと胸が沈むのも確かだった。 最初は軽い気持ちだったのに、いざ駄目だとなるとどうしても見つけたくなってくるのだ。掛けた願いを否定された、というと大げさかもしれないが――小さな染みがどうしても気になるときのように、自分の意思とは無関係な部分が「もう少し」と頑固に主張する。 結果、自分でも呆れるほどの時間探し続けてしまったことに、アッシュは少し笑った。微かに汗ばんだ額に張り付いた深緑色の前髪を袖口で軽く払うようにして拭う。 食料を買出しがてら散歩に出ただけのはずなのに、随分長いこと経ってしまっていた。 彼が今いるのは、地球側の自宅に程近い、公園とも空き地ともつかぬ広場である。 いくつかのスポーツ、レジャー施設が寄せ集めになったような場所の裏手が半端な空間になっていて、芝と野花が入り混じったそこはアッシュの密かなお気に入りだった。地均しされ小石が取り除かれたあとで作られた人口の自然だが、それでもアスファルトよりは遥かに肌に合う。 街の暮らしにどれだけ慣れても、森で生まれた人狼の身体は緑を恋しがる。とはいえ、その程度でメルヘン王国に戻るのも大げさだから、仕事続きのときや出掛けるついでの気分転換などに彼はよくここを訪れた。他の客が大して来ないため、特に顔を隠さなくても閉口するような騒ぎにはならないのも良かった。 アッシュが所属するバンド、Deuilの面々は全員が人にあらざる存在だ。 地球でのメジャーデビュー後に彼らの知名度を一気に引き上げたのは(やや不本意だが)その特徴的な容姿であった。音楽的な実力が際立っていたことは確かだが、その方面にさして興味の無い者でも彼らのことは一度でも見れば忘れない。 髪の色、肌の色、かたちそのものの違い―― しかしそれは、逆に言えばプライベートで地球を歩くときでも目立って目立って仕方ない上、変装のしようもないということだ。街中を歩くときに声をかけられたりじろじろ見られたりするのは、赤い目を恐がられるのとは別の意味で落ち着かなかった。 しかし流石に、人気ヴィジュアルバンドのドラムスと休日の草っ原でごろごろしている青年の像を結び付けられる者は多くない。花摘みをする子供の若いお母さんに時たま遠慮がちにサインをねだられる。その程度がせいぜいだ。ここは落ち着ける場所だった。 褐色の素肌に薄手のパーカーを直接着ただけの背中に、押し潰されたやわらかな草の感触がある。白詰草だけではなく、ハコベ、ナズナ、カラスノエンドウ――野歩きのたびに名前を教えてくれたのは姉だったか――レンゲやタンポポに遅咲きのすみれも混じって、ちょっとした花畑のような風情である。 そういえば小さい頃、兄弟と近所の子たちとで、やはり四つ葉のクローバーを探しに行ったこともあった。その時も、最後まで見つけることが出来なかった。「アッシュは駄目だなぁ」というすぐ上の兄の何気ない言葉に、本気で怒って喧嘩になった記憶。昔から要領が悪いのだ。 四つ葉のクローバー。 見つけた人には幸せが訪れる。 伝説と言うほど大仰ではなく、迷信と切り捨てるにはあまりに深く日常に根付いた――そんな他愛なく、そして優しいおまじない。 必死になって、夢中になって探すのは幼く無邪気な子供たちの特権で、自分は疾うにそれを微笑ましく見守る側の年齢に達していた。四つ葉を見つけることで得られる幸運だか幸福だかを、昔ほど信じ込めなくなったという意味で。 だから、ここまでむきになって探す必要なんて無いのかもしれない。 幸福なんて結局は気の持ちよう次第。望みが叶うかどうかなら、本人の努力次第だ。 と、天使の贈り物に巡り会えない彼は負け惜しみめいたことを考える。 もういい加減に切り上げて帰るべきなのは確かだった。なにせ、アッシュは自宅に客を待たせている。 (……けどなぁ) 目を閉じてなお瞼の裏に残る青空は、まさにその人物の姿を思い起こさせた。 バンド仲間であり、個人的にも特別な仲となったばかりの透明人間の容貌を、アッシュは眼裏に描いてみる。 空の端っこの薄雲に溶けかけて少し淡くなっている辺りの色が、そのまま彼の肌の色。アッシュの心の一番柔らかい部分をときどき指の先でそっと押すような色だった。 たまの休日である今日の午前中、スマイルは予告もなしに訪ねてきた。そして例によって例のごとく、カレーが食べたいとしつこくねだるから、アッシュは足りない材料を買いに出る羽目になったのだ。 スマイルの上手いところは、「カレー」の上に「アッシュが作った」という形容詞をつけて要求してくるところである。料理人の自尊心とサービス精神をいやが上にもくすぐるその文句。まして好きな人の口から出たとなれば効果は倍増だ。 恋人同士、という思い浮かべるだに赤面物の間柄になってからはまだ日が浅く、浮かれているという自覚はあった。が、自覚があれば乗せられずに済むというものでもない。 ついつい、「そんなに言うなら…」と甘い顔を見せてしまったのは今月に入って何度目だったか。片手の指を超えたことは確かで、ユーリに知られたら絶対にまた笑われる。 おまけに、当のスマイルは買い物に付き合ってくれるどころか、昨夜は仕事中に溜め込んだビデオのストックを見通しで寝ていないとかでアッシュのベッドで丸くなってしまったのだ。曰く、 「いってらっしゃい。帰ったら起こして」 ここまで来るともはや怒る気もしない。何でも徹底することって大事なんだなぁと的の外れた教訓を得たアッシュは、半ば呆れ、半ば諦めて、財布片手に家を出た。 思い返しながら伸びをすると、頭の上に放り出してあった買い物袋に手がぶつかった。中身は肉と今年のジャガイモと、各種スパイスにココナッツミルク。カレー好きのくせに辛いのは苦手な誰かさんのために、林檎と蜂蜜も忘れていない。 休日で時間があるのとスマイルの要望で、夕食のカレーは久々に市販のルーを使わず作る予定だった。 煮込むのに結構時間がかかるから、早く帰ったほうが良いのは解っている。 スマイルだって、とっくに目を覚まして退屈しているかもしれない。 だが、探し始めたのに見つからないうちに諦めるのはいやだった。どうしてか、どうしても嫌だったのだ。 アッシュは寝転んだ状態から腹筋だけでパッと起き上がる。 そのまま再度しゃがみこむと、彼は四つ葉のクローバー探しを再開した。 子供のように夢中に、懸命に。 ◆◇◆ 時刻は少しさかのぼって―― アッシュの予想したとおり、スマイルはとっくに目を覚ましていた。 が、彼が大人しく家主の帰りを待っていると考えるのは大間違いである。 物の少ないアッシュの家で退屈した透明人間が、昼寝から目覚めた後、屋内に留まっていたのは僅かに五分。とっくに帰っていていい時間なのに姿の無いアッシュを迎えにいってみようと、彼は思いつくまま外に出た。 暫く前に貰った合鍵で戸締りをするのは忘れない。防犯の意識は皆無だが、アッシュ以外でこの鍵を持っているのは自分だけだと思うと使うのが楽しかった。パタンと軽やかにドアを閉めて、どちらかというと冷たく硬質な感じに整った風貌を子供みたいににこにこさせながら鍵をかける。 あえてアッシュに連絡はしなかった。 これは、ちょっとしたゲームだ。 好きな場所もお気にいりの公園もよく買い物をする店も、アッシュが行く場所のことは大抵知っている。 その知識と勘を頼りに、はたして自分は彼を見つけることが出来だろうか? あらためて考えてみるに、逢える確率は決して高くない。 しかし、すれ違いになったらなったでアッシュのほうから電話でもしてくるだろうとスマイルは軽く考えていた。一方で、きっと逢えるという根拠のない自信があった。 面倒を避けるため姿を消して歩きながら、じっくりと行き先を推理する。 アッシュが好んで長居をするとしたら、日当たりと風通しが良くて、且つ、あまり騒がしくないところ。もしくは、予想外の特売に引っかかっているか。本やCDを見に行くと自分同様なかなか店から出てこない奴だが、今回の行き先からは外れているから除外していいだろう。ファンに捕まっているようだったら、回れ右をしようかそれとも助けてやるべきか―― スマイルの集中力は極端で、好きなものに熱中しているときとそうでないときとの差が激しい。考えても考えてもアッシュから思考が逸れず、またそれが楽しいことに気がついて、彼はなんだか嬉しくなった。 透明になった身体にも春の太陽は心地良かった。見上げる空は快晴だ。 なんとなく、この天気ならアッシュは緑のある場所へ行きたがる気がした。 家から近い順に公園や商店街をのぞいて歩き、ほどなく、テニスコートに隣接した小公園でよく知った姿を発見する。照明の下では濃緑色のアッシュの髪は、太陽を浴びると毛先が若草色に透けてきらきらして見えた。 自分と大事な人との思考があやまたず重なっていることを確認して、スマイルは一人小さく微笑む。おあつらえ向きに立ち位置は風下、アッシュは草地に膝をついて懸命に何かを探している様子。スマイルは姿を消したまま、足音をころして歩み寄った。 近づいて判ったがアッシュの周りは一面の白詰草に覆われていた。パーカーの袖を捲くってジーンズの膝を汚して、ここで探すものといったらただ一つ。 長い前髪を邪魔そうにしながら目を凝らす恋人の、ふわふわした耳元に唇を寄せて――そこまで近づいても気が付かないほどアッシュは夢中になっていた――透明人間はボソリと囁いた。 「そんなに幸せが欲しいんデスカ〜」 「うわあっ!」 びくんと跳ね上がった耳の先がスマイルの鼻をくすぐった。期待通りの反応の良さだが、当のアッシュにしてみればそれどころではない。 不意を打たれて驚いたのと吹き込むような囁きに、かくんと肘の力が抜けて前につんのめる。地面に顔から突っ伏しかけるのをすんでのところで踏み止まると、振り向きざまに迷わず怒鳴った。 「スマイル!気配消して声かけんなっていつも言ってるじゃねえっスか!」 「ヒッヒッヒッ、声だけで解っちゃうなんて愛だね、愛」 悪戯を成功させて大喜びのスマイルにアッシュは、 「……姿消せる知り合いなんて他にいねぇっスよ」 と、冷たく突っ込みを返す。 「…そりゃそうだ」 スマイルは、ふっと芝居がかった笑いを漏らして姿を現した。 ノイズが走るように空気が歪み、蒼い肌の長身を形作る。左目を覆った包帯と鮮やかすぎる瑠璃青の髪が野原には恐ろしく不似合いだった。草木の仲間のような緑の髪と小麦色の肌が景色に馴染むアッシュとは対照的だ。 アッシュは驚かされた失態を取り繕うべく殊更にさりげない風を装って、隣に腰を下ろしたスマイルを振り仰いだ。 「なんでこんなところに?」 何十分も「こんなところ」にいた自分のことはあっさりと棚に上げて訊ねる。 「君の帰りが遅かったから迎えに」 「ああ、そっか。ゴメン待たせちゃって…って、オレここに寄るなんて言いましたっけ?」 「ううん。ぼくの勘〜」 スマイルがにぃっと得意そうに笑みを引くと、アッシュは素直に感心した。見開いた紅玉の瞳を二、三度しばたかせて、陽光に透けて緑藻色にけぶる睫毛の奥からしげしげとスマイルをみつめて、 「よくわかったっスねぇ」 惜しみない賛嘆の言葉をくれる。 アッシュのこういうところがスマイルはたまらなく好きだった。ちょっとした受け答えにも裏表のない快活な性格が見て取れて、嬉しいし、心地好いし、可愛い。しかし同時に彼があまりにも単純なものだから、ついついからかってみたくなってしまう。スマイルは笑みはそのままに、独特のシニカルな冗談口を叩いて肩をすくめた。 「でも見つけちゃ悪かったかもね…溜息つきながら四つ葉のクローバー探してるなんて、凄く可哀想なひとみたいだよ」 「う・る・せ・え・よ」 一瞬前までの尊敬の眼差しはどこへやら。アッシュはちょっとでも心を動かされて損をしたと言わんばかりの怒り顔で、言い捨てるが早いか緑の絨緞に向き直った。スマイルがやって来たことで彼は却って意地になっていた。透明人間は半ば呆れてアッシュを見遣る。 と、その瞬間スマイルの目は一点に吸い寄せられて動かなくなった。丹念に地面を探るアッシュの膝の辺りで目的の四つ葉が揺れていた。隻眼を大きく見開いたまま、踏まれる前にと反射的に飛びつく。 「あった!」 アッシュは信じられないという顔で振り返った。 それも道理だ。まさかそんなに近くにあるのを見逃していたとは思うまい。 だが、無意識に眉根を寄せるその表情は単純な驚きにはとどまらず、徐々に切ないような悔しいような色を含んだものへと変わっていく。最後には耳までぺしゃんと垂らしてしまった。 (そんなに欲しかったわけ…?) スマイルはその反応を意外に思って、摘み取ったクローバーを片手に痩せぎすの首を傾げる。 だが、予想を上回るアッシュの真剣さは彼にとってむしろ好都合だった。小さな贈り物にすぎないが、これは喜んでもらえるに違いない。スマイルは小さく笑みを引いて、 「はい、あげる」 手にした緑を差し出した。アッシュは直ぐ受け取ろうとはせずに、赤い目をぱちぱちさせて不思議そうにスマイルを見上げた。 「いらないんスか?」 「幸せなら君から充分もらってるから」 さらりと返す。紛れもない本音のその言葉をいつもの軽口だと受け取られないように気をつけた。子供のような口調とは不釣合いに低く響きのいいその声にアッシュは弱い。 「……キザ」 狙い違わず狼男の琥珀色の頬は色づいた林檎みたいにぱっと染まった。よくそんなセリフが恥かしげもなく出てくるよ、などと、可愛い顔で可愛くないことを言ってくる唇をスマイルは指でそっとなぞる。 折角だから一口くらい頂いておきたかったが、惜しいことにネット越しのテニスコートには幾人かの客がいた。こっちのことはまだバレていなさそうだが――もしバレていて週刊誌とワイドショーに話題を提供してやることになっても自分は一向に構わないが――どのみちアッシュは人目を気にする性質だから、度が過ぎる手出しをして機嫌を損ねたくはない。 伏せた睫毛の愛らしさに押さえが聞かなくなる前に、スマイルはこころもち顔をそむけながら会話を繋いだ。 「ほんとのことだよ。…で、これどーすんの?いらないの?」 アッシュはようやく顔を上げる。しかし口から出た答えはまたしてもスマイルの予想を裏切るものだった。 「受け取れないっス」 好意をはねつけられてちょっと傷ついたような目をする恋人に、アッシュは慌てて付け足す。 「人からもらってもダメなんだって。ずるいことするとバチが当たって不幸になるんだって、姉貴が言ってた」 「ふぅん」 興味薄く頷いてスマイルは手を引っ込めた。 この人狼がそんなまじないめいたことを信じているのは意外だったが、クローバーそのものに対して彼のほうでは特にこだわりは無い。アッシュの真剣さが伝わるほどに、スマイルが気になるのはそうまでして探そうとする理由の方だった。 切れ長の隻眼をじっとアッシュの赤い目に繋ぐ。彼の心の奥底まで見透かそうとするように。 「アッシュは、僕があげてる分の幸せじゃ足りない?」 冗談で済ますには強すぎる問い掛けに、アッシュはぎくりと身体を硬くする。 拗ねて咎める声は否定を期待していた。疑問というよりは単なる子供じみた要求。だが、正直すぎるアッシュはそれにうまく乗ってやることができなかった。 「いきなり何言い出すんスか…」 若草を指で撫でながら曖昧にぼやく。問われたような意味とは違う意味での不安はあったが、口に出すつもりはもとより、ちゃんと言葉にする自信もなかった。スマイルはその誤魔化しを敏感に嗅ぎ取り、アッシュの頬を包んでそのままひょいと引き寄せた。 「こっち見て話してよ」 かぁぁっと、音がしそうな勢いで頬が熱くなる。ちょっと首を傾ければ口付けもできそうな距離で向き合った瞳に危険な色を発見して、アッシュは電流にでも触れられたような思いでスマイルを突き退けながら声を荒げた。 「貴方って人はほんっとに!油断も隙もあったもんじゃないっス!!」 それからあらためて、やや落ち着きを取り戻した態度でかるく恋人をにらむ。 「そーゆーんじゃないっスから。それだけは絶対!だからこんなことでムキになって、縁起でもないこと言うのは止めて下さい」 「むきになってるのはアッシュの方じゃん」 せせら笑うように言い当てられてアッシュは口をつぐんだ。スマイルは途端に当惑げな心配顔になる。 「怒ったの?」 「…………」 アッシュは答えない。スマイルは手を伸ばして、見た目よりも随分と柔らかな緑の髪にくしゃりと指先を突っ込んだ。 「ごめんごめん。からかいすぎた。ねぇ、悪かったよアッシュ。機嫌直してー?」 スマイルはアッシュの髪を撫でながら、ふざけまじりに――といってもこれ以上アッシュの機嫌を損ねずまた下手に落ち込ませたりもしないよう気を配りながら――謝りたおす。終いにはアッシュも深刻に構えているのが馬鹿らしくなって吹き出してしまった。 「別に、怒ってるわけじゃないっスよ」 「それだけ〜?」 今度は不服そうになるスマイルに、アッシュは別に悪いことをしているわけでもないのに焦ってしまう。 「だから、その、足りないなんてことは全然…」 「ん〜、もう一声」 「スマイル大好きー、とか言えばいいんスか?」 ちょっと投げやりに顎をそらしかけて、アッシュはちらりと横目に捉えた表情にまた視線を引き戻された。真剣にしろふざけているにしろアッシュを相手にしているときは常にどこか余裕のあるスマイルが、ぽかんと口を開けてこちらを凝視している。アッシュはハッと口元を押さえた。とんでもないことを口走ってしまっていた。 「あ、いや、その……」 スマイルの目を逃れるように俯いた顔はみるみるうちに温度を上げ、ふわふわの獣耳もしなやかに伸びた首筋までも薄朱く染まっていく。その色づいた耳の先が戸惑うようにぱたぱたと動いた。先程までのように単に動揺のあまり頭に血が上ってしまうのとは違って、どこかはにかむような、甘さを伴った赤面のしかた。その反応だけでも好かれていることを思い知るには充分で、期待以上の反応にスマイルはすっかり気をよくしてしまった。もう後で怒られるかもしれないだのと気にしてはいられない。 「ヒッヒッヒッ、アッシュか〜わいいっ!」 膝がつくような距離にいる恋人を飛びつくようにして抱きしめる。咄嗟に支えきれずにスマイルもろとも草の上に転がったアッシュだが、今度は怒らなかった。服越しにもやや筋の目立つ腕に頬をすり寄せる。 不満なんて、あるわけがない。 扱いにくいところも理解が及ばないところも多々あるが、それらを含めてアッシュはスマイルのことが好きだった。今だってうまく気分を上向かせてもらって――それに限らずいつもいつも、両手で抱えきれないほどの幸福を、自分のほうこそ彼からもらっている。 あるとすれば不満ではなく不安だった。 これ以上ないほど幸せであるがゆえに、手放したくない。 けれど望んだからといっていつまでも続く保証などないから、アッシュにはそれが――それだけが微かに不安なのだ。 抱き倒された肩越しの視界には相変わらずの新緑と青空が広がっていて、うららかな陽射しに暖められた大地が心地好かった。目を閉じると、なんだか辺りは奇妙に静かで、テニスコートの喧騒も鳥の声も耳に入らずにただスマイルの鼓動と体温だけを感じていられた。 (このまま時間が止まればいいのに) 似合いもしない名文句まで脳裏に浮かんできてしまって、アッシュの口元は自分に向けた苦笑で僅かにつりあがる。 物思いに沈むアッシュの姿はぴったりと肌を寄せていたスマイルの目には入らなかった。手に持ったクローバーを弄りながら呟く。 「人からもらうと不幸になるなんて話、初めて聞いたよ」 「そう?オレの育った辺りではみんな言ってた」 伝承なんて地域それぞれだが、個人的には慣れ親しんだものに拘ってしまう。アッシュはようやくうつつに戻ったばかりの頭でそこだけはしっかりと答えた。 正気になるとこの体制は気恥ずかしく、上に乗っているスマイルを押しのけて起き上がる。スマイルは不満そうだったがまさかいつまでも寝転がっているわけにもいかないし、結局二人は向かい合わせに座る体勢に戻った。 すると唐突に、スマイルはもう一度四つ葉を差し出してきた。 「ねえアッシュ、やっぱりこれは君のだよ」 「なんでっスか」 一度目よりも考え深げな態度に目を留めて、アッシュは断るかわりに首を傾げる。 「アッシュがぼくの隣で幸せそうにしててくれないとぼくは絶対幸せにはなれない。ってことは、ぼくが幸せになるってことは、君が幸せなのと同じことでしょう?」 どうやら彼は彼なりに、四つ葉のクローバーを見つけられなくて落ち込んでいるアッシュを励まそうとしているらしい。 「だから、どっちが持ってても結果はあんまり変わらないと思う。どんな願掛けだったのか知らないけど安心しなよ」 これで叶うでしょ?とスマイルは眼を細めた。 アッシュは半ば惚けたようにその言葉を聞いていた。聞きながら、だんだんと顔を上げる。告白のような、独白のようなスマイルの科白。 その内容は、まさに―― 「ずるい!」 「へ?」 いきなり激発した恋人に、スマイルは間の抜けた顔をした。 しかしアッシュはきょとんとしている彼にはお構いなしで、悔しさとも憤激ともつかぬもので顔を真っ赤にしながら詰め寄る。 「オレも同じっスよ! スマイルがずっと傍にいてくれますように隣で笑っててくれますようにってのがオレの”幸せ”なの! だから、その、探してて、でも見つからなくて!すげぇ悔しかったのに――なのになんであんたはそんなあっさり――オレに出来なかったことやって、しかも同じ願いだなんて…」 言いながらどんどん、自分が馬鹿なことをまくし立てていることがわかってきて、 「…何なんスか、もう」 アッシュは最後にはへたり、と力なく言葉を切った。 つまるところ、それがアッシュの四つ葉を諦め切れなかった理由だった。 買出しの帰りにこのなんてことない幸せがずっと続けばいいと半ば戯れのように公園に寄って、それなのに思いの外四つ葉探しが難航したせいで段々と不安のほうが強くなってしまった。夢中になるとすぐに周りが見えなくなる悪い癖も手伝って、こんな気持ちのままスマイルの待つ家に帰るわけにはいかないと切実に思って、ますますむきになって探し続けた。 しかし、こうして口に出してみると―― (アホかオレは…) すごくものすごく、馬鹿みたいであった。その考えも行動も。 言い終えると一気に力が抜けてしまってアッシュはスマイルの胸倉を掴んだままがっくりと溜息をつく。本当に、なんて下らないことにこだわっていたことか。第一わざわざ願わなくてもコイツはそれこそ馬鹿みたいにオレに夢中だ。現に今も、「両想い〜」とか喜びながらけたたましく笑っている。 気の済むまで笑い転げてからスマイルは、まだ肩を震わせながら「ありがとう」と可笑しそうに言って、憮然としていたアッシュの気分もそれで少しだけ浮上した。もともとアッシュは済んだことを引きずるほどしつこくはない。憑き物の落ちたようなすっきりした顔で、少しだけ決まり悪げに苦笑した。 問題が解決したところで、スマイルは楽しげに話題を戻す。 「今思ったんだけど、確かに貰う相手と場合によっては不幸かもしれないね」 「場合?」 アッシュはスマイルの手の中の四つ葉を見遣って怪訝そうに眉をひそめた。わだかまりが解けた今となっては、このクローバーをくれるというなら貰ってもいい気持ちになっているのだが、彼はいつもアッシュが思いもつかないことを唐突に言う。 しかもスマイルはその疑問には答えずに全然別の問いを返してきた。 「アッシュは、クローバーの花言葉なんて知ってる?」 「さぁ?知らないっス」 名前どおりの笑みを消して、透明人間は真剣な顔になる。 「『私のものになって下さい』」 永遠の絆を象徴する、謳い文句。 そういえば結婚式でもよく使われていることを思い出して、あれはこういう意味だったのかとアッシュは意味もなく焦った。 「だからぼくとしてはぜひ受け取ってほしいんだけど……さて、このクローバーは君にとって、幸福と不幸どっちだろうね?」 スマイルはあらためて、四つ葉のクローバーをアッシュの手に押し付けた。冗談半分本気半分。楽しむような笑みの奥に強い光がある。 「ぼくのものになって」 前髪の奥に隠されたアッシュの瞳をいつくしむように、じっと見据えて真摯な告白。 アッシュは呆けたようにスマイルを見上げて、クローバーを見下ろして、それから。 おもむろに回れ右をした。 あまりに素早くしかも意図の読めない行動に、スマイルの少し吊った赤い瞳が三白眼を通り越して点になる。 「あ、アッシュ君……?」 「オレも探してくる!」 振り向きもせず言い置いてアッシュは再び花野に顔を伏せた。 「絶対見つけてくるから、そしたら、貰って」 少し硬い、真剣この上ない声音。人狼の赤い瞳は先刻までとはまた違った意味で本気になっていた。 他愛ないおまじないを信じ込むほど幼くはない。 けれど。むきになる価値はあると思った。 その科白を反芻して、心なしか赤い獣の耳を後ろから眺めて、スマイルは爆笑した。可笑しさではなく嬉しさで。 身体を折ってひとしきり笑い終えてから、彼もまたアッシュの隣に膝をつく。 「手伝うよ」 申し出にアッシュは渋面を作った。 「それじゃ意味無いっスよ」 「そんなにぼくが欲しいわけー?」 律儀なアッシュの言葉が嬉しくて可愛くてスマイルはついじゃれ付いてしまう。探索に邪魔なのと照れくさいのとで、アッシュは耳の先を抓んだ包帯をぺし、と叩いた。 「不幸のプレゼントの方っス!」 「駄目だよ。ぼくはちゃんと自力で一つ見つけたもん」 「くっそ、腹立ってきた」 淀みなく言い交わしながら二人は注意深く緑を探る。 憎まれ口を叩き合っていてもその様子はとても楽しそうで、例え目的のものが見つからなかったとしても関係なく、一緒に探すという行動そのものに心が弾む。そういった、理屈抜きの無邪気な幸福がそこにあった。 彼らにはもうとっくにわかっていた。奇跡やジンクスはそれだけではただの形にすぎない。大切なのはそれを信じて思いをかける二人の気持ち。 そしてそういうときにこそ、祝福というものは訪れる。 「――あった!」 ほどなく、ぶこつな両手で小さな四つ葉を宝物のように押し戴いて、紅潮した頬の輝くような笑みで振り返ったアッシュに、スマイルもまた心からの笑顔で応じたのだった。 その後はもちろん二人して、いい年して何をやっているんだかとひっくり返って笑ってしまったのだけれど。 見つけたばかりのクローバーを順番に差し出して交換する。 そんな儀式めいた行為に、ふざけたような振りをしながら胸を高鳴らせたのは自分だけではないだろうとお互いに信じた。 私はあなたのものなのです。 あなたは私のものなのです。 例え四つ葉のクローバーがなかったとしても、それは変わらない事実。 しかし確かなきっかけとして、天使の祝福は気持ちを後押ししてくれた。二人並んでの帰り道は買い物袋の取っ手を真ん中で半分ずつ持って、空いた手にそれぞれクローバーを抓んで歩いた。 「あんまり信じてなかったんだけど、ちゃんといいことあったねぇ」 「いいこと、ねぇ。これでこの先もずっとスマイルのおもりかと思うとオレは微妙な気分っスよ」 「お、生意気〜。あんな一生懸命探しちゃってたくせに」 互いの行動を茶化し合いながら、帰り道の話題は夕飯のカレーへ明日の仕事へと忙しく飛ぶ。二人で歩くと家路は行きの半分にも短く感じる。 人目のない曲がり角でくすくす笑いながら一瞬だけのキスを交わした。 幸せは、探さなくても此処にある。 そんな当たり前のことに、遠回りの探し物をしてやっと気がつく―― 煌くような、春の昼下がり。 FIN. |
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